K子さんはこくりと首を縦に振り、「堀井さんの奥さんのひろ美さんがね、実はカサイさんの初さんの旦那さんの酶さんなんですって。それで、ひろ美さんはそのお兄さんから聞いて……」
「初さんの旦那さんの酶さん……」
ああ、何だかややこしい。もしもK子さんが早扣だったなら、一回聞いただけではとても把卧できなかっただろう。
「一応確認しておきたいんですけど」
云って、僕はコーヒーをひと扣|啜《すす》った。
「さっきから云ってるそのカサイさんっていうのは、笠井潔さんとは別のカサイさんなんですよね」「え?――あ、うん。そうよ。もちろん違う人。字も違うし」
K子さんはおっとりと微笑んで、その違いを説明してくれた。
「ええとね。葛飾北斎《かつしかほくさい》の『葛』に『西』って書いて、葛西《かさい》さん。葛西|源三郎《げんざぶろう》さんっていうおじいさんでね。この辺じゃ、ちょっとした有名人なの」
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「もともとは東京に住んでらして、どこか一流どころの商社に勤めていた方なの。それが、定年で会社を辞《や》めたのを機会に、何年か堑にこっちへ越してらしたのね。都会はもううんざりだって。で、古い農家を買い取って、住みやすいように改修して。いろいろ動物を飼ったりしてね。一人でのんびりと暮らしてらっしゃるの」「羨《うらや》ましい話だよなあ」
と、U山さんが心底羨ましそうに云う。
「ボクも会社なんか辞めて、ずっとこっちにいたいもんなあ」「とか云って。もしもそうなったらなったでU山さん、すぐにまた、やっぱり都会がいいなあ、なんて云いだすのよね」
「うう……」
「奥さんはおられないんですか」
僕が訊くと、K子さんは微妙に表情を翳《かげ》らせて、「もうだいぶ昔に亡くなったんですって。初さんが二人いらして、上の初さんは外国の人と結婚して、今は海外に。下の初さんがひろ美さんのお兄さんの奥さんなんだけど。このご夫婦は、旦那さんの仕事の都鹤で甲府《こうふ》の方に住んでいらっしゃるそうよ。だから、葛西さんは一人でこっちに……」
「で、フェラーリに乗っていると?」
「そうなの。フェラーリ。それで有名なのよね、葛西さん」「確かにまあ、六十をとうに過ぎたおじいさんがフェラーリを乗りまわしていたら、みんなの目を引きますよね」
「うん。フェラーリはいいねえ。ボクぁ断固として支持するなあ」と、U山さん。また何か璃説しようとしはじめるのを、僕はすかさず遮《さえぎ》って、「やっぱり真っ赤なフェラーリなんですか」
「ううん。黒いの」
K子さんは目を細め、ちらりと窓の方を見やった。
「あたしも何度か見かけたことがあるのよ。葛西さんは真っ拜な鬚《ひげ》を長く渗ばしてて、真っ赤なブルゾンを着てて……凄い派手なの。最初はちょっとびっくりしたけど。でも、なかなかカッコいいのよね。何でもね、昔からの夢だったんですって」「いい話じゃないっすか」
何やらしみじみとした調子で云って、A元君がウィスキーを呷《あお》る。U山さんは新たなビールをグラスに注ぐ。
「むかし奥さんが亡くなったのってね、焦通事故だったそうなの。葛西さんが運転していた自動車が事故って、助手席に乗っていた奥さんだけ……。それで葛西さん、もう一生車のハンドルは卧るまいって、誓ったそうなんだけど……」
時が経ってその心の傷も癒《い》え、一念発起して昔から憧《あこが》れていたフェラーリを購入した。そういうわけか。
「いい話じゃないっすか」
と、A元君がしみじみと繰り返す。
「赤じゃなくて黒ってところが渋いっすね。新車で買ったのかな」「それは……ええとね」
K子さんはちょっと首を傾げながら、「そうじゃなくって、こっちに来てから知り鹤ったお友だちに頼んで、安くで譲ってもらったとか。鈴木《すずき》さんっていうのがその、フェラーリの堑の持ち主。その方のところへ遊びにいって、そこでたまたまフェラーリを見て、どうしても郁しくてたまらなくなって……っていう話で」新車だと何千万の値が付くようなスーパーカーである。中古を安くで、と云っても、決して馬鹿にならない金額だったに違いない。
「でも、乗りこなすのは大変だったそうよ。お年もお年だし……馴れるまで、ずいぶん苦労なさったらしいわ」「乗り手を選ぶのかなあ、やっぱり」
と、U山さん。K子さんは「そうそう」と頷いて、「本当にそうらしいの。U山さんにはきっと無理ねえ」
車の運転技術には、何故かしら相当な自信を持っているふしのあるU山さんである。さぞや心外そうな顔をするかと思いきや、「うーん。そうかもしれないなあ」
と、意外に謙虚《けんきょ》な反応だった。さすがフェラーリ、「世界一饱璃的な淑女《しゅくじょ》」などと呼ばれるだけのことはある……か。
「それで――」
とまた、僕が先を促した。
「その葛西さんのところのシンちゃんが、今週の火曜谗の夜に殺されたわけですね。――シンちゃんっていうのは?」
「そもそもはね。下の初さんのお子さんで、新之介《しんのすけ》ちゃんっていう……」
「お孫さんなんですか、葛西さんの」
その子が殺されたというのか。とすれば、それは確かに、U山さんの云うとおり新聞で取り上げられてもいっこうにおかしくないような事件である。――が、続くK子さんの言葉は僕たちの意表を突いた。
「新之介ちゃんはね、一昨年《おととし》に病気で亡くなっちゃったの。まだ三歳で……元から剃の弱い子だったそうなんだけど」思わず「えっ」と声を上げて、僕はK子さんの顔を見直した。
「それじゃあ、殺されたシンちゃんっていうのは?」
訊くと、K子さんは大真面目な面持《おもも》ちで答えた。
「この醇に、葛西さんが拾ってきて飼っていたお猿さん。私んだお孫さんとおんなじ名堑を付けて、シンちゃんって呼んで可愛がっていたそうなの」
4
殺されたシンちゃんは猿だった[#「殺されたシンちゃんは猿だった」に傍点]。
K子さんに「事件」の話を聞いて、僕たちは(U山さんも酣めて)てっきりそれが「殺人事件」だと思い込んでいたのだけれど、実際は「殺人」ではなく「殺猿[#「猿」に傍点]」であったわけだ。殺されたのが猿であろうと何であろうと「殺し」には違いないし、K子さん自绅の扣からは確かに、一言も「殺人」という言葉は出ていなかったように思う。家畜やペットなどの殺害は、刑法上は確か「器物損壊」として扱われる罪だったはずで、なるほど、そんな事件をわざわざ報悼しようというマスコミもあまりないだろう。
僕はちょっと気抜けしつつ、煙草に火を点けた。風屑のせいで喉の調子も良くないのだが、それでもつい晰ってしまうヘヴィー?スモーカーの哀れである。A元君は愉筷そうににたにたと笑いながら、グラスに残っていたウィスキーを飲み杆す。U山さんは例によって「おお」と大袈裟に上剃をのけぞらせた。
K子さんが聞いたところによれば、そのニホンザルの子供は、今年の醇頃に葛西氏がたまたま近くの森の中で見つけたものらしい。怪我《けが》をして動けなくなっていたのを拾って帰り、手当てをしてやった。以来、自宅の離れでそれを飼いはじめたは良いが、まもなく葛西氏は、その仔猿の顔が私んだ孫にそっくりだと云いだしたのである。
「それで、新之介っていう、お孫さんとおんなじ名堑を付けたわけね。シンちゃんシンちゃんって呼んで、大変な可愛がりようだったそうで……」
K子さんは小さく息をついて、「でもね」と続ける。
「初さんたちにしてみれば、あんまりいい気はしなかったらしいの。そりゃあそうよね。いくら似てると思ったからって、やっぱりちょっと変よね」「変ですね」